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【歴史考察】マリー・アントワネット真実の姿に迫る

どんな人?

彼女の名前を一度は耳にした事があるでしょう。
言わずと知れた、フランス王妃であるマリー・アントワネット。オーストリアの『女帝』マリア・テレジアの末娘として家庭的なオーストリア王宮に育った彼女は、14歳の時にルイ16世と結婚する為にフランスへやって来ました。フランス革命でギロチン台の露と消えた彼女の振る舞いには良い印象はないのではないでしょうか・・・。

本来彼女はどんな女性だったのでしょう。前回の考察に続き真実のマリー・アントワネットに迫ります。

Emma
今回は彼女についてのEmmaの考察です。飢餓に苦しむ平民へ「パンがなければお菓子を食べたら?」という言葉を放ったという逸話、着道楽や博打好きから赤字夫人と言われていた話、フェルセン伯爵との浮気・・・マイナスばかりが語り継がれていますが、今回はみなさんの知らないマリー・アントワネットの姿をご紹介したいと思います。もしかしたら彼女の印象が変わるかも!?
gee
歴史上の人物でもとても魅力的な人物の1人ですよ。

勉強は苦手・・・でも音楽は大好き!

マリー・アントワネットは由緒正しいオーストリアハプスブルク家のプリンセス。神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの11女として
ウィーンで誕生しました。ちなみにドイツ語のお名前はマリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。このマリア・アントーニアのフランス語読みがマリー・アントワネットなのですね。

幼少時代のアントーニア wikipediaより

彼女が得意だったのは、作曲家グルックの元で身につけたハープやクラウザン!
それ以外にはダンスやイタリア語も得意でした。肝心のフランス語は苦手で、お勉強については一冊の本を読み通すことも難しいほど集中力に欠けていたそうです。
しかし、家族で狩猟に出かけたりバレエ、オペラの観劇をしたり、また自身が演じることもあり、プリンセスでありながら温かで家庭的な子供時代を過ごしました。

兄弟の中で最も仲が良いのは同じ部屋で育った3歳年上のマリア・カロリーナでした。実は本来ルイ16世との婚約が考えられていたのはこのマリア・カロリーナだったのです!マリア・カロリーナは母であるマリア・テレジアの政治的才能を最も濃く受け継いだとされています。なぜフランスに嫁ぐことが無かったのかと言うと、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死した為です。
翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになりました。マリア・カロリーナは実際に小国ではあるもののナポリでその政治的才能を発揮しています。もし、予定通りフランスへ嫁いだのがマリア・カロリーナだったら歴史は変わっていた事でしょう。しかし歴史は時に残酷です。昨今のコロナも同じです。一体何人の人がコロナが無ければ・・・と嘆いている事か。もちろん私もその1人です。

マリア・カロリーナ wikipediaより

gee
キリッとしていて聡明そうだね。
Emma
アントワネットは可愛らしくて、遊び好きで人から愛されるプリンセスでしたが、カロリーナの代わりに得た「フランス王妃」という席は少し荷が重すぎたのかもしれません・・・。敵陣に乗り込むような政略結婚だったので、よほどできる娘でないと厳しかったのです。

赤字夫人なんて呼ばないで!本当の私を見て!

マリーアントワネットの逸話はたくさんありますが、今回は2枚の絵画から彼女を読み解きたいと思います。

こちらの絵を見たことはありますか?

モスリンのゴールドレスを着た王妃マリー・アントワネットwikipediaより

マリー・アントワネットのお気に入りの画家であったエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランが書いたモスリンのゴールドレスを着たマリー・アントワネットです。

1783年、サロンで展示するためにこの絵画は制作されました。この絵が書かれた頃、着道楽や博打による浪費で「赤字夫人」と呼ばれていたアントワネットはすでに母になっていました。そして堅実に過ごす大切さに気が付いていました。「今の自分を見て欲しい」「あの頃とは違うのよ」と、あえてこのドレス姿の自分をルイーズ・ヴィジェ=ルブランに描かせたのかもしれません。

しかし、すでにアントワネットがどんな事をしても批判の対象となる状況でした。本来王妃が肖像に描かれるときは王家の装束を身につけていなくてはいけません。「毛皮のローブ・王冠・笏」です。しかしこの絵の王妃はモスリンのゴールドレス姿であった為、王妃の服装として不適切であるとして問題となり、展覧会からこの絵を取り除くよう求められました。

その後王妃の服装としてふさわしいシルクのドレスの絵が書き直されました。それがこちらです。

Marie Antoinette 1783 wikipediaより

でも、矛盾を感じますね。1770年代に小麦が不作となった時はお金を使い過ぎていると非難され、今度は質素な服をきたら「威厳が無い、王政への侮辱だ」と非難されるのです。もはや何をしても非難の的であったことは確かでしょう。

当時の政治的歴史背景、小麦の不作、また通常であれば王妃の代わりに批判の的となるべきであった愛妾がルイ16世にいなかったという状況もあり、元々敵国出身のマリー・アントワネットの評判は右肩下がりでした。

Emma
愛妾の存在は王妃を守る上で大切でした。通常王の寵愛を受ける愛妾に敵意が向けられ、王妃は哀れみの目で見られましたが、それで命が守られていたという点もありました。マリー・アントワネットは本来愛妾に向けられていた憎しみを王妃の立場で受ける形になってしまいました。それは余計に強い批判となってしまったことでしょう
ナポリに嫁いだマリア・カロリーナなら才能溢れる政治手腕で、ぽやっとしたルイ16世を助け、困難を切り抜けられたかもしれないね
gee

ものすごく批判して、絵を外させたくせに、なんとこのモスリンのゴールドレスは大流行します。ファッションリーダーとしての存在感は健在でした。

本当に欲しかったものは何か

マリー・アントワネットというと、フランス王妃として何不自由無くワガママに生活をしていて、「お腹が空く」という気持ちも、食べ物が無いという事も想像できないから「パンがなければお菓子食べたら?」なんて言えてしまう、そんな悪い印象がありませんか?

でも私は、彼女は幸せを夢見る普通の女性だったのでは無いかと思います。

彼女の夢見た「幸せ」とはどんなものだったのか。

フランスを旅して、絵画を見て、ヴェルサイユ宮殿を見て回った結果、それがこの「王妃の里村(ハムレット)」に凝縮されている様に感じます。

ヴェルサイユ宮殿の一角にある王妃の里村

ここがマリー・アントワネットがヴェルサイユ宮殿の一角に作った「王妃の里村(ハムレット)」です。ここにある建物は実用性をあまり考えられずに作られている「ハリボテ」なのですが、とても美しくのどかでどこから見ても完璧。そして落ち着く場所なのです。どうして「ハリボテ」なのかって?それはこの村が王妃の「夢」だからです。

自然にガチョウ?が歩いています。

マリー・アントワネットは子ども達の子育てをここでしています。彼らをとても可愛がり、「真面目夫人」や「キャベツちゃん」なんてあだ名をつけていました。ここは彼女が子育てをする「隠れ家」という意味合いを持つ様になっていきましたが、きっとそれは温かで自由な自分の子ども時代と同じ体験を子供達にしてほしいという思いからだったに違いありません。

彼女は子供達の特性をよく観察して手記に残しています。例えば息子のルイ=シャルルについては「あまり厳しくするとかえって頑なになる。本当は優しい性格なのに素直にごめんなさいが言えない」等です。

また、自分は読書嫌いでしたが、子ども達には読書をさせていました。

Emma
実はとても近代的な教育を施していたのです。

マリー・アントワネットの求めた幸せとは、家族・友情・結婚・母親である事・・・といったごく一般的なものだったのだと思います。幸せとは日常の生活の些細な事柄の中に見出せるものだというルソーの考えに通じるものです。しかし、この「夢」の里村での子育ては、実際の状況を全く反映していませんでした。その為、「これは世の中に背を向けたものである」という考え方を持った人々はこの子育てをよく思いませんでした。

また、フランス王妃としての勤めにこの幸せの追求は含まれておらず、国民の求める姿と彼女自身の求めるものが大きく離れていってしまったのだと感じます。

様々な研究が進むにつれ、マリー・アントワネットの本当の姿に迫ることができる様になってきました。きっと彼女は魅力溢れる優しい少し寂しがり屋の素敵な女性で母親だったのだろうと思います。

Emma

今日もご覧いただきありがとうございました!

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